「やります!」って言っただけ。「契約成立」の恐怖のタイミング

ここで学べる学習用語:契約、契約自由の原則、意思表示、契約の成立(申込み・承諾)
第16回: 「やります!」って言っただけ。「契約成立」の恐怖のタイミング
前回、第15回の抜き打ちテストで、俺はかろうじて「法務基礎力、まだまだっすけど、少しは成長したっす!」と胸を張れるくらいにはなっていた。神崎さんにも「まあ、及第点でしょう」なんて言われた時は、思わずガッツポーズが出たもんだ。やっぱり、真剣に学んだ知識が定着していくのは、まるで俺の筋肉が増えていくみたいで嬉しい。ビジラボもようやく軌道に乗り始めたし、この調子でガンガン攻めていくぞ!
しかし、法務ってのは本当に底知れねぇ沼だ。少し慣れたと思っても、すぐに新しい落とし穴が口を開けて俺を待ち構えている。それが、今日まさに俺の目の前で開いた、とんでもない落とし穴だったんだ。
1. 軽い口約束が、重い現実へと豹変する瞬間
「青木社長、御社のサービス、本当に素晴らしいですね。ぜひ、ウチとしても使わせていただきたい」
取引先A社の担当者、課長の山田さんがニコニコしながら言った。A社は業界では中堅だが、最近急成長している企業だ。彼らにビジラボのSaaSサービスを使ってもらえれば、一気に信用力も上がって、他の大口顧客も引っ張ってこれるかもしれない。俺は前のめりになっていた。
「ありがとうございます!ぜひ、ご検討ください!」 「いや、検討じゃなくて、もう決めたいくらいですよ。青木社長、もうこの場で『やります!』って言っていただけたら、部長を説得してすぐにでも正式に稟議にかけますよ!」
山田課長は、営業の場数を踏んでいるだけあって、交渉がうまい。まるで俺の気持ちを読み取っているかのように、俺が最も聞きたい言葉をぶつけてくる。俺も昔は営業の最前線に立っていたから、こういう言葉の裏にある「早く決めたい」という気持ちが痛いほどわかる。
「え、マジっすか!いやー、それは嬉しいですね。ありがとうございます!もちろん、やります! ビジラボとしても、A社様とはぜひ長期でお付き合いさせていただきたいです!」
俺は興奮して、思わず身を乗り出した。「やります!」という言葉には、営業マンとしての熱意と、A社との取引が始まることへの期待が込められていた。山田課長はさらにニヤリと笑う。
「おお、さすが青木社長!男前ですね。じゃあ、早速部長に掛け合って、細かい契約書は後日送らせていただきますね。納期は来月末までで、間違いないですか?」 「はい、問題ありません!」
来月末までに、A社向けのカスタマイズを施したサービスを納品する。俺の中では、まだ「正式な契約書を締結してからの話」だった。今は、あくまで「前向きに進めましょう」という意思表示、営業マン同士の社交辞令、みたいなものだと思っていた。これまでもそうやって、大きな仕事を決めてきた。詳細を詰めるのは契約書を交わす時。それが当たり前だった。
その日の夕方、オフィスに戻ると、斉藤さんが何やら書類を抱えてやってきた。 「社長、A社さんから連絡が来ました。来月末までに、カスタマイズ版の納品をお願いしますとのことです。契約書は明日には郵送されるそうです。…それと、納品後の検収期間が短いので、今すぐ開発に着手してほしいと」
「え?マジで?もうそんなに急かされてんの?」
俺は驚いた。いくらなんでも、まだ契約書を交わしてないのに、こんなに急展開するのはおかしい。 「いや、まだ契約書にサインしてないから、開発はちょっと待ってもらわないと…」 俺が言いかけたその時、背後から声がした。
「青木さん。あなたは今日、A社と『契約』を成立させていますよ」
振り返ると、そこには神崎さんの冷静な目が光っていた。いつもの知的な表情は崩さないが、その声には有無を言わせぬ重みがある。 「え?契約?いやいや、まだですって!口約束で『やります!』って言っただけですよ。正式な書類はまだ届いてもいないし、ハンコも押してません!」 俺は焦って弁解した。だが、神崎さんは首を横に振る。
「法的には、その『やります!』という意思表示と、それを受け入れたA社の意思表示によって、既に契約は成立しています。契約書はあくまで、成立した契約内容を『証明する』ためのものに過ぎません。ハンコも、日本の商習慣における重要な儀式ではありますが、契約成立の絶対条件ではありませんよ」
背筋に冷たいものが走った。まさか、俺が営業マン時代から何気なく使っていた「やります!」という言葉が、こんなにも重い責任を伴っていたなんて。 「え、冗談じゃないっすか!?マジで?俺、ただの社交辞令のつもりだったんすけど…」 「残念ながら、青木さんの心の中の『冗談』は、相手に伝わっていません。そして、法的な世界では、その『心の中』よりも、『外に表出した言葉』が重視されるんです」
神崎さんの言葉に、俺は完全にフリーズした。冷や汗が止まらない。俺の軽い口約束一つで、ビジラボは来月末までの納品義務を負ってしまったのか?そして、もし納品が間に合わなかったら…?
「おいおい、そんなバカな…。契約って、もっと重いものじゃなかったのかよ…」 俺は目の前が真っ暗になるのを感じた。
2. 神崎さんの「それ、もう契約です」という冷徹な一言
「青木さん、落ち着いてください。このオフィスに移転した際、大家さんとの間で『火災保険に加入する』という口頭での約束を交わしましたよね?それは、後から契約書が送られてきても、『やめます』と言えるものでしたか?」
神崎さんの問いに、俺は言葉に詰まった。 「…いや、それは、もう『やります』って言った時点で、加入するもんだと思ってましたけど…」 「ええ。それと同じです。ビジネスにおける『約束』は、多くの場合、言った時点、合意した時点で拘束力を持ちます。それが『契約』というものです」
神崎さんの言葉は、俺の常識を覆した。今まで「契約書にサインして初めて契約」だと思っていたのに、まさか口約束で、しかもたった一言で成立してしまうなんて。
「じゃあ、俺が山田課長に『やります!』って言ったのが…その、『契約』の始まりだったってことっすか?」 俺は震える声で尋ねた。神崎さんは静かに頷く。
「その通りです。正確には、A社からの『申込み』に対し、あなたが『承諾』の『意思表示』をしたことで、『契約』が成立しました。そして、この一連のプロセスには、『契約自由の原則』という、非常に重要な法原則が関わっています」
「申込み?承諾?契約自由の原則…?ヤバい、全然わかんねぇ…。俺、とんでもないことをしでかしたってことっすか…?」
俺は頭を抱えた。法律用語が次々と飛び出してくるが、全く頭に入ってこない。ただ、漠然とした恐怖が俺を襲う。口約束で始まった契約、それは一体どれほどの責任を俺たちに負わせるのだろう。
3. 神崎の法務レクチャー:見えない契約、その成立の瞬間
「青木さん。多くの人は『契約書』がなければ契約は成立しない、と考えがちです。しかし、民法上、契約の成立に書面の作成は原則として不要です。むしろ、書面なしでも成立することこそが、ビジネスを加速させる上で非常に重要な要素であり、同時にリスクでもあるのです」
神崎さんは俺の目の前にあるホワイトボードにペンを走らせた。
【神崎の法務レクチャー】
「まず、『契約』とは何か、から始めましょう。簡単に言えば、二人以上の者の意思表示の合致によって成立する法的な約束のことです。この『法的な約束』という点が重要です。約束に法的な拘束力が発生する、つまり、守らなければ法律上の責任を問われる、ということですね。青木さんの今回のケースで言えば、A社とビジラボの間に、サービス提供と対価の支払いの義務が発生した、ということです」
【神崎の補足解説】契約(けいやく)とは?
法律上の定義では、二人以上の者の間で、一定の法律効果の発生を目的として行われる、互いに対立する複数の意思表示の合致のこと。分かりやすく言えば、「こうしましょう」という意思と「はい、そうしましょう」という意思が合致し、その約束に法的な強制力(守らなければならない義務)が発生することです。これがビジラボ(スタートアップ)において具体的にどう影響するかというと、口約束であっても、一度成立した契約は原則として一方的に破棄できないため、不用意な発言が、予期せぬ大きな義務や責任(損害賠償など)に繋がりかねません。特に、スピードが重視されるスタートアップでは、口頭での合意が多いため、このリスクを認識しておくことが非常に重要です。
「次に、『契約自由の原則』についてです。これは、私たちがどのような契約を、どのような相手と、どのような内容で、どのような方式で結ぶか、ということについて、原則として自由に決定できるという考え方です。 青木さん、あなたはA社とビジネスをしたいという意思がありましたね。A社もまた、ビジラボのサービスを使いたいという意思があった。その二つの意思が合致した結果が、今回の契約成立です」
「自由…っすか。でも、俺はそこまで深く考えてなかったというか…」
「ええ、そこがポイントです。この『自由』の裏には、『責任』が伴います。自由に契約を結べるからこそ、その内容や、契約を成立させるに至った自身の言動には、重い責任が生じるのです。だからこそ、一つ一つの言葉、意思表示に慎重にならなければなりません。 では、具体的にどのようにして契約は成立するのでしょうか。それは、『申込み』と『承諾』という二つの意思表示の合致によって成立します。 今回のケースでは、A社が『御社のサービスを使わせていただきたい』、そして『部長を説得してすぐにでも正式に稟議にかけますよ』と具体的に『来月末までに納品してほしい』といった言葉が、契約の『申込み』に当たります。この申込みには、A社があなたとの間でサービス利用契約を締結したいという意思が明確に示されていますね」
「なるほど…ってことは、俺が『やります!』って言ったのが…」
「そうです。それが、A社の『申込み』に対するあなたの明確な『承諾』の意思表示です。法的に見れば、A社が提案した内容(サービスの利用、納品時期など)に対して、あなたが『その通りで構いません』と同意した、と解釈されます。この『申込み』と『承諾』の意思表示が合致した瞬間、つまり、青木さんが『やります!』と発言した時点で、両者の間に契約が成立した、と見なされるわけです」
「うおおお…。マジかよ…。俺、営業マン時代からずっとこの調子でやってきたぞ…。でも、それでトラブルになったことは…いや、トラブル寸前になったことはあったかも…。今思えば、契約書を交わす前に『これ、やっぱり条件変えたいです』って言ったら、相手が『話が違うじゃないか!』って怒ってたこと、あれもそうだったのか…」
俺は過去の記憶がフラッシュバックして、冷や汗がさらに噴き出した。
「その可能性は非常に高いですね。日本では、特に中小企業間や、付き合いの長い取引先との間では、口約束が横行しがちです。しかし、法的には、書面がなくとも契約は成立し、それに伴う義務と責任が発生します。 例えば、あなたがA社に『来月末までに納品します』と承諾した以上、その納期を守る義務が生じます。もし守れなければ、それは『債務不履行』となり、A社から『損害賠償』を請求される可能性もあるのです。これは、あなたが契約書にサインしようとしまいと、関係ありません。重要なのは、お互いの意思が合致したかどうか、です」
「損害賠償…っすか。やべぇ…」
「ええ。そして、『意思表示』は、法律行為を行う際に、その内容を外部に表明する行為を指します。青木さんの場合は『やります!』という言葉ですね。この『意思表示』が、心の中の意図と異なっていたとしても、相手がその言葉を素直に受け取ったのであれば、原則としてその言葉通りの効果が発生します。 つまり、あなたが内心で『冗談半分』『社交辞令』と思っていたとしても、相手が『本当に契約するつもりだ』と信じるに足る状況であれば、その言葉が法的な効力を持つ、ということです」
神崎さんは俺の顔をまっすぐ見て、続ける。
「もちろん、全ての口約束が常に厳格に契約として扱われるわけではありません。例えば、日常の些細な会話であれば、法的な意思表示とは見なされません。しかし、今回のA社との取引のように、具体的なサービスの内容、納期、金額といった要素が示され、ビジネス上の明確な意図がある場合、その口約束は立派な『契約』と見なされます。特に、あなたが『社長』という立場で発言した言葉は、その責任が非常に重いと認識してください」
俺は、自分の言葉が持つ重みを、初めてこれほどまでに痛感した。たった一言の「やります!」が、ビジラボという会社に、そして俺自身に、とてつもない責任を負わせていたなんて。
4. 青木の理解と葛藤:営業のノリを捨てる時
「神崎さん、つまり…要はこういうことっすか?」
俺は震える声で、必死に頭を整理した。
「俺が山田課長に『やります!』って言った時点で、A社が提示した条件、つまり『ビジラボのサービスをA社向けにカスタマイズして、来月末までに納品する』っていう内容で、俺はすでに『契約を結びました』ってことっすよね?契約書は、その『結ばれた契約の内容を忘れないように紙に書いたもの』っていうだけで、その紙がなくても契約は成立してた、と」
神崎さんは、じっと俺の言葉を聞いていたが、ゆっくりと頷いた。
「はい、その通りです。青木さんの理解は、法的に見てほぼ正しいと言えます。営業の現場で、その場の勢いや雰囲気で『やります!』と言ってしまう気持ちは理解できますが、それは同時に、会社に『義務』を発生させてしまう行為だということを、忘れてはなりません」
「うおおお…。そうか、そうだったのか。俺、今までどれだけ無責任な発言をしてきたんだ…。幸い、今回は納期はきついけど、何とか間に合わせられそうな案件で助かった。もし、もっと無茶な条件だったら…」
俺はゾッとした。これがもし、とんでもなく費用がかかる追加開発を口頭で約束してしまっていたら?あるいは、とてもじゃないが守れない納期を「やります!」と答えてしまっていたら?想像するだけで胃がキリキリと痛み出す。
「青木さん。ビジネスにおける『契約』とは、常に紙の契約書を伴うとは限りません。特にIT業界では、メールやチャットでのやり取り、あるいはウェブサイト上の利用規約への同意など、形式は多様です。重要なのは、双方の明確な意思表示の合致です。この根本原則を理解していれば、不要なトラブルを避け、逆に、相手との信頼関係を強固なものにできるはずです」
「信頼関係…」
俺は神崎さんの言葉を反芻した。今まで、信頼関係は「人柄」や「熱意」で築くものだと思っていた。だが、法務の視点から見れば、それは「明確な約束」と「その約束を履行する責任」によって築かれるものなのだ。
「これからは、どんなに小さな約束でも、言葉一つ一つに責任を持たないとダメなんすね。営業のノリで曖昧なことを言ったり、軽々しく『やります!』なんて言えない。ちゃんとビジラボに、そして顧客に、義務と責任が発生するんだって肝に銘じないと…」
俺は深く息を吐き出した。今回の件は、文字通り「身をもって」契約の重要性を学ぶ体験だった。営業としての瞬発力や熱意は大切だが、それをコントロールする法務のブレーキがなければ、会社はあっという間に事故を起こしてしまう。俺は、そのブレーキの存在を、ようやく心から理解した気がした。
5. 解決への一歩と小さな成長:見えないルールを味方につける
A社との契約については、斉藤さんが早速、A社に連絡を取り、正式な契約書を早めに送付してもらい、内容を確認する手はずを整えてくれた。そして、開発チームには、まずは基本部分から着手してもらうよう指示を出し、俺自身も納期に間に合わせるためのスケジュール調整に奔走した。
結果的に、A社との契約は無事に締結され、来月末の納品に向けて動き出すことができた。しかし、俺の中に残ったのは、冷や汗と、もう二度と同じ過ちを繰り返すまいという強い決意だった。
「法務、マジでヤバいけど、やるしかねぇ…。俺がビジラボの社長である限り、言葉一つにも責任が伴う。そして、その言葉が、会社の未来を左右するんだ…」
俺は、神崎さんが去った後のホワイトボードに残された「契約自由の原則」「申込み」「承諾」「意思表示」という言葉をじっと見つめた。見えないルールを恐れるだけではなく、正しく理解し、味方につけること。それが、俺たちスタートアップが荒波のビジネスの世界で生き残っていく唯一の道だと、強く確信した瞬間だった。
2. 記事のまとめ
📚 今回の学び(神崎メンターの総括)
[学習ポイント1]: 「契約」は原則として口頭でも成立し、法的な拘束力を持つ。契約書は、成立した契約内容を「証明する」ためのものに過ぎない。
[学習ポイント2]: 契約は「申込み」と「承諾」という双方の意思表示の合致によって成立する。意思表示は、心の中の意図ではなく、外部に表明された言葉や行動が重視される。
[学習ポイント3]: 「契約自由の原則」により、私たちは自由に契約を結べる反面、その内容や自身の言動には重い責任が伴う。口約束一つが大きな法的義務や損害賠償責任につながる可能性がある。
今週のリーガルマインド(神崎の教訓) 「あなたの言葉は、時に『契約』という名の鎖となり、会社を縛ります。その鎖が、会社の足枷となるか、あるいは、会社を守る絆となるか。それは、あなたが言葉を発する前にどれだけ『法』を意識しているかにかかっています」
💭 青木の気づき(俺の学び)
- 「やります!」の一言が、まさか法的に契約成立を意味するなんて、想像もしてなかった。営業のノリで言ったことが、とんでもない責任に繋がるってことか…。もう二度と、軽々しく口約束はしねぇ。一つ一つの言葉に、ビジラボの未来がかかってるって肝に銘じるぞ。
3. 次回予告
A社との契約は何とか無事にスタートを切れた。俺は自分の言葉の重みを痛感し、これからは慎重に発言することを心に誓った。しかし、神崎さんの言葉はいつも俺の想像を遥かに超えてくる。
「青木さん、契約が成立したとして、安心するのはまだ早いです。もし、相手の山田課長が『あの時、私は冗談で言ったんですよ』とか、『社長、あの条件を勘違いしていました』なんて言い出したら、どうしますか?契約書があっても、それが覆る可能性だってあるんですよ」
え?冗談?勘違い?そんなこと、契約の世界で通用するのか?俺は、法務という深淵に、さらなる不穏な影が忍び寄っているのを感じた。
次回: 第17回 嘘と勘違い! 心裡留保・虚偽表示・錯誤

